読者へのご報告&お礼―100講を迎えて

久野 武

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毎月お届けしてきた「H教授の環境行政時評」ですが。このほど無事100講を迎えることができました。これも読者の方々の熱い励ましのお蔭と厚く感謝しています。

この環境行政時評がスタートしたのは2003年の1月からですが、実はその前身があります。
私は1984年から1986年まで約3年間鹿児島県に出向していました。そのとき大変お世話になった上司が桑畑眞二さんでした。
桑畑さんは私が関西学院大学へ来た前後に、鹿児島県を退職されました。その後、南九州地域環境問題研究所を設立・主宰され、県内の廃棄物処理など静脈産業のご意見番として、その健全な発達のために尽力されました。
同研究所は「南九研時報」という隔月のミニコミを発行し、桑畑さんの緻密な論考が掲載されていました。
桑畑さんは私にも執筆するよう慫慂され、何篇か寄稿したのですが、ふと思いつき、生意気な男子ゼミ生との対話=漫才で環境問題を論じることにしました。
2000年2月に発行された南九研時報の21号に掲載された「環境行政ウオッチング 進化=深化する環境行政」がそれです。幸いにも好評を博し、それから以降隔月で環境行政ウオッチングシリーズを寄稿しました(南九研時報は桑畑さんが健康を害され2007年9月の59号で廃刊になりましたが、それまでほとんど毎号に環境行政ウオッチングが載せられました)。

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さて、この「環境行政ウオッチング」にはさらに前身があります。
私は1996年に環境庁(当時、現・環境省)を辞して関西学院大学に来ました。もとより来たくて来たわけではありません。総合政策学部を新設するにあたり、アカデミックな研究者だけでなく、行政の実務家も呼びたいということで、大学のほうから環境庁に要請があったのです。
私はそれまで研究などしたこともなく、学生を教えるという経験もまったくなかったのですが、たまたま私が自然保護行政と公害行政の双方をかなり広くカバーする経歴だったため、環境庁から半強制的に赴任することを強いられたわけです。
1997年の秋学期から講義を持ったのですが、一コマ1時間半を無事しゃべれるかどうか未経験なのでまったく自信がありませんでした。時間切れならば次回回しでいいですが、時間を持て余したら、みっともないということで、時間つぶしを考えました。
その結果、講義を始める前に10分か15分かを費やして、その週の環境に関する新聞記事とそれに関する自分の役人時代の経験をネタにしての時評を行うことにしました(授業評価の結果では、皮肉なことにこの時評がもっとも好評で、おかげで現在まで、そのための新聞記事の切り抜きがやめられないでいます)。
桑畑さんから原稿を頼まれたとき、どうせならこの授業前の時評を使いまわそうと思いついたわけです。

さて、環境行政ウオッチングの載った南九研時報は、近況報告代わりに何人かの環境庁時代の友人に送っていました。これに目を付けたのが、当時、環境情報普及センター(EIC)にいた鹿野兄(元・環境庁審議官)と松浦さん(元・環境庁施設整備課長)で、「環境行政ウオッチング」と同じスタイルでEICネットという日本最大の環境ウエブに書くように依頼がありました。
そこで対話の相手を女子学生に変えて2003年の1月より始まったのが「環境行政時評」でした。当初隔月でという話だったのですが、第1講が好評だったので毎月アップすることにしました。
それから延々と8年半、昨夏にはアップ先を総合政策学部独自HPに移し、今日100講を迎えることができました。

私自身は大学教員でありながら、なんらの研究もしていない(できない)ことにコンプレックスを持っていましたが、この時評を書き続けるうちにそうしたコンプレックスは払拭されてきましたし、私の大学生活は時評とともにあったと言えると思います。
一方、100講は、東日本大震災やフクシマ原発事故という戦後最大の国難のただなかで書くことになってしまいました。
当初から切りのいい100講で打ち止めすることに決めていましたが、こうした状況のなかでは、このまま打ち止めにするのでなく、今後とも定年まで四半期ごとに発表し、この国難の行く末を見届けていきたいと決意を新たにしました。
これからもご支援方をよろしくお願いいたします。草々。

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